詳細なプロフィール(3)
大学時代
高校卒業後は善戦むなしく浪人生活に突入。
いや善戦というより、そもそも学力が足りていませんでした。
1年間、地元の予備校に通い、ただただ勉強の日々・・・
結果、2大学3学部に合格。
本命の大学には落ちたが、精一杯やってこの結果だからしょうがない、という境地で、進学を決めました。
でも本音は「これ以上両親に心配や負担をかけさせたくない」。
進学したのは立正大学経済学部。
初めて親元を離れ、埼玉県熊谷市で一人暮らしを始めました。
当初は、環境の急激な変化に対応しきれませんでした。
寂しくて、やることも特になく、早寝早起きの非常に健全な生活・・・
そんな折、熊谷駅近くのまだ慣れない道を原付で走行中、交通違反切符を切られてしまい、このときばかりは精神的にかなり応えました・・・
やがて大学生活に慣れてくると、あっという間に生活のリズムが崩れ去りました。
入ったサークルは、「学園祭実行委員会」。
高校以来、この手の活動が、結構気に入っていました。
大学では「星霜祭」という大学祭を毎年秋に実施しています。
企業や個人事業主にスポンサーの依頼をしたり、熊谷市のイベントに参加してPRするなど、学園祭の広報や宣伝が主な役割でした。
本番直前期はキャンパス内にある宿泊施設で2週間以上の合宿生活。
いろいろな意味で密度の濃いひと時を過ごしました。
嗚呼シャバが恋しい・・・
しかし終了時の達成感は、今でも忘れることができないくらい、すばらしいものでした!
勉強に関しては当初こそ意欲満々でしたが、実行委員としての活動が面白くなってくると徐々におざなりになっていきました。
でも最低限単位はしっかり取りたいので、授業にはできるかぎり出席していました。
同級生や先輩の中には、テキトーに授業出てテキトーに試験対策して、単位だけはしっかり取るという「要領のいい人」が少なからずいましたが、まじめな性格上、私にはそのような芸当はできませんでした。
よって、試験直前はノートを「借りる側」ではなく「貸す側」。
文字は達筆ではなく、自分が最低限読める程度のもの。
さらに筆圧が強くないので、コピーしても普通の濃さでは読み取れず。
ノートを借りた友人は判読に結構苦労していました。
決して意地悪したわけではありません。笑
2年になり、地元で自動車免許取得。
当初は1〜2ヶ月程度で取得するつもりでしたが、仮免試験に3度落ち、4ヶ月近く手こずりました。
もう、永久に取得できないのではないか、と本気で落ち込みました。
3年からは通う校舎が熊谷から東京の大崎キャンパスに変わるため、東京都品川区中延に転居。
東急線や地下鉄浅草線が通っていて、荏原町・旗の台・中延・荏原中延など最寄り駅がいくつもあることに驚愕。
東京ってなんて便利な街なんだろう!
学園祭の活動は継続していたため、月に数日は熊谷キャンパスに足を運んでいました。
そのこともあってか、授業の出席率が徐々に悪化しました。
しかし卒業に必要な単位だけは死守すべく、試験直前期は日比谷の都立図書館にこもりきりになっていました。
この頃から、鉄道を使ってふらふら〜っと旅に出ることがしばしばありました。
「青春18きっぷ」を使ってひたすら西に向かったり、日帰りで関東甲信越をグルリと回ったり・・・
行ったことのない町並みや文化を見聞するのは、非常に面白いです。
それでも時刻表で乗る列車や時間をあらかじめ計画することは怠らない、A型な私・・・
その作業がまた楽しかったりするわけですが。
4年になる前の春休み、生まれて初めて海外の地を踏みました。
「就活対策セミナー」のかたちでの香港旅行。
セミナー内容はもとより、見ず知らずの他学部生などと触れ合う機会を与えられ、有意義なものでした。
香港は当時まだ返還前で、「私は中国人でもイギリス人でもなく香港人」と言った現地の学生の言葉が今も印象に残っています。